日枝神社は、鎌倉時代初期に秩父重継がその居館のうちに奉祀した山王宮に始まります。
文明年間(1469〜86)には太田道灌公が江戸城築城にあたり川越山王社を勧請、天正18年(1590)、徳川家康公が江戸城を居城とするや、場内紅葉山の地に新社殿を造営しました。
二代将軍徳川秀忠の江戸城大改築の際には半蔵門外、現在の国立劇場付近に遷座しましたが、明暦3年(1657)、江戸を襲った大火「振袖火事」のため溜池を望む景勝の地、星ヶ岡に遷座し現在に至ります。
江戸時代歴代将軍世嗣の社参絶えることなく、その都度神馬・太刀等を献じました。
明治維新の東京奠都によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として、皇室の御崇敬殊に篤く、大正天皇御即位の当日には官幣大社の極位に列せられました。
昭和20年5月、空襲により国宝の御社殿をはじめ、境内の建物は山王稲荷神社を残し悉く灰燼に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠により「昭和御造営」がなされ昭和33年、御本殿以下の建物が完成、山王台上に再び大社の威容を拝するに至ります。
御社殿御復興50年を記念して、第22代文化庁長官の宮田亮平さん監修のもと、日枝神社草創期の武蔵野を彩った百花草木に鳥虫を加えた123枚の絵が上下拝殿の天井に掲げられました。
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神門の額は神宮祭主北白川房子様(明治天皇第七皇女、北白川成久王妃殿下)によります。
(おおやまくいのかみ)
大山咋神
当社は大山咋神を主祭神として、また国常立神、伊弉冉神、足仲彦尊を相殿(同じ御殿)にお祀りしています。
「古事記」には、『大山上咋神。亦名山末之大主神。此神者坐近淡海國日枝山。亦座葛野之松尾。用鳴鏑神者也。』と見え、山・水を司り、万物の生成発展を守護する神として、その広大無辺の御神徳は多くの崇敬を集めました。
また近年では東京有数の「パワースポット」としても知られ、皇居の裏鬼門(南西)をお護りする強大な御神威にあやかろうと方位除や厄除に言うに及ばず縁結・子授・安産を祈る人々が後を絶ちません。
猿は日枝大神の使いと言われ、厄除・魔除、夫婦円満などを願う人々が像を撫でながら一心に祈ります。
国宝・重要文化材を含む、
数々の宝物
昭和53年、江戸城内御鎮座500年を記念して造営された宝物殿には、歴代将軍奉納の太刀を始め、数多くの宝物が収蔵されています。刀剣は国宝1口、重文14口、朱印状12通。他にも江戸時代の山王祭山車人形、錦絵等、全て当時の山王大権現に対する信仰の篤さを窺わせる宝物です。
毎日 9時〜16時の間開館しております。
展示入れ替えなどのため休館する場合もございます。
詳しくは宝物殿のページをご確認ください。
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正保3年(1646)6月6日徳松君(後の綱吉公)の初宮詣の折に奉納されたもの。則宗は鎌倉初期の刀工で福岡一文字派の祖、後鳥羽院御番鍛治の一人です。
三代将軍家光公の手習草子(習字に用いる冊子)を貼って作られたと言われています。
山王祭で民衆がこの獅子頭を目にすると、土下座をして迎えたことから、「土下座の獅子頭」とも呼ばれました。
当社は幕府の直轄神社であったため歴代将軍は朱印状をもって神領を寄進し神社の維持運営に寄与しました。六、七、十五代将軍を除く、12通の朱印状が残されています。
日本三大祭のひとつ山王祭をはじめ、
古式ゆかしい四季の祭
日本三大祭のひとつとして、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は例年6 月に行われ、江戸時代にはその神幸行列が江戸城内に入り、将軍自ら上覧されたことから天下祭と称されました。隔年に行われる神幸祭では、2基の鳳輦と1基の宮神輿が、古式装束をまとった五百余名の供奉列と共に東京の中心地を巡幸します。
また生気あふれる若水をお供えし、能「独翁」を奏する元旦の若水祭、境内の特設舞台で行われる節分豆まき、8月の箸祭、旧暦8月15日に行われる仲秋管弦祭等、四季折々の祭典が執行されます。
知らず識らずに犯した罪・穢を人形(ひとがた)にうつし、また「茅の輪」をくぐることにより、身心を祓い清める神事。6月と12月に行われます。
境内の特設舞台では特別年役・年男・年女により豆まきが行われ、多くの参詣者で賑わいます。